記事作成日:2022年6月16日

※この体験談は、執筆者の先生ご自身の思いや感情を、できる限りそのまま表現いただき、私たちもそれを尊重いたしております。表現、用語などは誤解のないように配慮いただいておりますが、お気づきの点がありましたらご意見いただければ幸いです。

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茶柱 あん子
卒後15年目 麻酔科医(麻酔科専門医、指導医)
妊活を経て二児を出産し、現在、育児をしながら市中病院に勤務。(執筆時)

1私の妊活歴

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私の「妊活歴」は上図の通り。振り返ってサマライズしてみると、自分でも「あれ?これだけか」と拍子抜けするほどに短い。
最初から「1年半」と期限が決まっていれば、悩むほどのこともなく通り抜けるだろう。
だが、実際には、いつ終わるというゴールが見えないため、道のりは非常に長く感じられる。
例えて言うなら、
砂漠をさまよっていて、オアシスが見えたので歩いて行ったら、ただの蜃気楼だった。
がっかりしたその時、遠くに今度こそ本物のオアシスが見えて、いよいよ気力を振り絞って必死の思いで、周りのフルサポートを受けてようやくたどり着いたら、やっぱりそれも蜃気楼で…。
何度もそれを繰り返して、疲労と口渇と徒労感に絶望する。
というような感じであった。

また、現在医師となっている女性のほとんどは(私も含め)、幼い頃から、様々な局面で「正しく計画し、正しく努力すれば結果が出る」「自分の力で扉を開ける」という経験をし続けてきた人たちだと思う。
それが、妊活を含めた妊娠出産において、初めて「努力量が必ずしも結果に結びつかない」という理不尽な(しかし、考えてみれば生き物としては当たり前の)世界を体験し、衝撃を受けるのではないだろうか。

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2妊活・エピソードゼロ

妊活というと、高度不妊治療をイメージされる場合が多いと思う。
が、私は今回あえて、妊活ステージゼロ期にもフォーカスしたいと思う。

「妊活」とは、そろそろ赤ちゃんがほしいなぁと考えるところから始まり、
妊娠に向けて夫婦で話し合うこと、知識を取り入れ行動を起こすこと、
そして医療による不妊治療まで、赤ちゃんのいる生活をめざして行動すること全般を表した言葉です。

「Doctors File 夫婦で始める初めての妊活」より引用

「妊活」の定義が上記だとすると、
医師にとって妊活の第一歩は、なんといっても
妊娠出産が可能な(しやすい)環境に身を置くことであろうと思う。
職場選びは、動物でいえば巣作りのための場所選び。超重要事項である。
私は、初期研修終了と同時に結婚し、夫の希望で出身大学近辺を離れることとなったため、
後期研修先としての「妊娠出産しやすい」職場を探した。

考えていた条件

全体の雰囲気が良い きちんとしたトレーニングが積める といったことに加え、
ボスが妊娠出産に理解がありそう ある程度人数が多い 若い医局員が疲弊しきっていない 遠方への転勤がない など。

これらを満たす、ある大学病院の医局に就職した。
(本当は、「すでに妊娠出産を経て復帰している先輩が複数いる」職場が理想と思ったが、選んだ職場はそうではなかった。しかし「あまり前例がないため、逆に柔軟に対応してくれそう」という気がしたため、そちらに期待することとした。)

入局当時、医局内には、出産するなら専門医取得後(医師7年目以降)に、
という暗黙のルールがあった。
しかし、私は20代での第1子出産を狙っていたので暗黙のルールはひとまず気にせずに(もちろん黙っていたが)、
標榜医(医師4年)を取得したタイミングで出産、というつもりでいた。

早めの出産を考えているからといって、医師としてやる気がない、というわけでは全くない。
子供を持っても、医師としてのキャリアを積みたい。その希望は、男性女性とも同じであろうと思う。
しかし、男性と違って、キャリアを継続するには、
出産後に(今度は育児中の人材として)再び職場に迎え入れてもらわねばならない。
そのためには、産前までにある程度の信頼関係を構築しておく必要がある、と考えた。
推奨より多少早くても、円満に産休入りし、円満に復職し、不利益なく研修を受けたい!
という目標を見据え、逆算して
就職当初から、なるべく与えられた仕事に文句を言わず、よく学び、丁寧に仕事をするように(少なくとも、上司からそう見えるように)、努力した。
これも、私にとっては、間接的な妊活であったと言える。

3妊活・エピソード1

結婚して1年半(医師3年半)が経過した頃から、避妊をやめ、実質的「妊活」体制に入った。
これで計画通り順調に妊娠、
するはずであったが、

どうしてだろうか、待てど暮らせど授からない。
婦人体温計を購入し、朝一番の基礎体温を測って、グラフもつけ始めた。
リズムはほぼ良好。
排卵が近いとみれば、乗り気だろうが乗り気じゃなかろうが、夫に懇願して関係をもつ。
そこから、今度こそはと、ドキドキして待つ数日。
なのに基礎体温が下がって、早朝から夫に八つ当たり。
その繰り返し。
(本当に迷惑だったことだろう。ごめん、夫。)

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そんなこんなで半年が経過し、さすがに不安になってきた。
医師5年目、結婚3年目。不妊治療専門クリニックに行ってみることにした。
自宅から近くて通いやすい場所で、実績のありそうなクリニックを、ネットで検索して選んだ。

明らかな原因がないか、検査だけでもしてもらって…と、軽い気持ちで受診したのだが、
初回から、先生に
「29歳ですね!すでに半年タイミングを取って、妊娠に至っていないということですから、もう次のステップに行きましょう!!」と勢いよく言われた。熱い。
この勢いに流されるように、医療介入開始となった。

ホルモン値検査、感染症検査、精液検査、抗精子抗体、子宮卵管造影、フーナー検査、
など、同時並行でさまざまな検査を進めつつ、
さっそく人工授精(AIH)をすることになった。
チャンスは3回。
3回やってダメなら、次に進んだ方がいいというクリニックの方針であった。

カルチャーショックを受けたのは、
フーナー検査にあたって
「朝6時から8時の間にタイミングを取って、受診してくださいね!」
と、明るく元気に大声で言われたこと。
朝!?6時から8時限定で!?「タイミング」を取る…!?!?(ラジオ体操じゃないんだから、。)
うわぁ、なんだかもう、これは「寝屋の秘めごと」ではないんだな、と感じた。

AIHは、

AIH(人工授精)

  1. 内服と注射と貼り薬で卵巣刺激
  2. 点鼻薬で排卵誘発
  3. 採取した精子を、洗浄濃縮して子宮内に注入
  4. さらに貼り薬で黄体補充し、着床を待つ

という流れで、
たくさんの薬剤が用いられるんだなぁ…と驚く。

通院回数を少しでも減らすため、筋注は自分でできることを伝え、アンプルとシリンジをもらって帰ってきた。
看護師さんに打ってもらおうが自分で打とうが、注射は痛い。頻回の採血も痛い。内診も地味に痛い。不規則な生活をしながら薬を毎日時間通りに飲むのは煩わしいし、中用量ピルでは吐き気が出た。
でも、そのような痛みよりも、何よりも一番辛かったのは、通院のために頻繁に仕事を遅刻・早退しなければならないこと、
そうして、少しずつ築いてきた職場での信用を失う(としか思えなかった)ことであった。

クリニックはとても混雑していて、予約していても毎回長時間待たされる。
受診のタイミングも自分では決められない。
エコーを見て「来週の水曜…か木曜ですね。明後日もう一度エコー見て決めましょう」
と言われたので、無理やり当直を替えてもらったのに
次回受診時に「あ、やっぱり火曜にしましょう」などと言われたりして。
外勤も、当直も、何の予定も立てられない。

夫の当直もある。
さすがに、この頻繁な日程変更に夫を巻き込むのは申し訳なく、
AIH当日、当直中の夫の職場まで、採取された精子を受け取りに行ったこともある。
採れたてホヤホヤであろう精子(詳細は聞かないことにした)の入ったカップを断熱バッグに入れて、3時間以内に、慎重にクリニックまで運びながら、
一体私は何をやっているんだろう、人間とは何てヘンな生き物なんだろう…と空を仰いだ。

しかし!!
そんな努力もむなしく、3回のAIHはすべて失敗に終わる。
3度目に敗れた朝、泣いて鬱陶しく絡む私に
夫は横目でテレビを見ていて、慰めもしてくれなかった。
なんて優しくない人だろう、とイライラしていると
「俺だって毎月ガッカリだ。子供はまだなのかって周りから聞かれるし、
優しくできる時は言われなくてもできるけど、優しくない時は、優しくできない時なんだよ!」と返ってきた。
夫には感情の波はないと思い込んでいたけど、そうではなかった。
夫の気持ちを思いやる余裕をなくしていたな、と思った。

1周期、治療をお休みして、(こういう、お休み期間中にふとリラックスしてできることもありますよ〜、というような体験談もしばしば目にするのだが、私には当てはまらなかった。リラックスが足りなかったのかな…)

体外受精(IVF)に進むことになった。
私の通っていたクリニックでは

IVF(体外受精) 〜採卵、採精〜

  1. 顕微鏡下で体外受精
  2. 胚培養
  3. 凍結保存
  4. 子宮内膜の状態を整えて
  5. 融解した胚を移植

という流れで行われる。

以降、夫の出番が1回で済むのは有り難かった。

そのかわり私の通院回数は段違いに増え、さすがに勤務調整をせざるを得なくなった。
医局にどう話すか、色々悩んだが、
ストレートに話してしまうことにした。
今こそ、エピソードゼロ「職場選び」の真価が問われる時である。

教授に話し、医局長(外勤先などの人事を担当)にも話し、
外勤をやめて、当直も減らしてもらった。
転勤予定も外してもらい、引き続き本院に勤務させてもらうこととなった。
とにかく心苦しい。

事情を知らない先輩たちには
「最近何してるの?専業主婦?」などと聞かれたため、
何か深刻な病気のふりをして、沈痛な面持ちで「…実は…通院をしています…」と答えたら、それ以上は聞かれなかった。通院、嘘ではない。
(今だったら「妊活」という便利な言葉があるので、「妊活です!」と明るく、
答えるのは、やっぱり、ハードルが高いですよね…。)

外勤をやめて当直回数が減ると、月収は1/4になった。
医師同士の夫婦で、経済的に困窮するわけではないが、
当時は給付金もなく、助成金は所得制限のため対象外であり、自費診療の負担は大きかった。

職場には迷惑をかける、稼げもしない、お金を使うばかりで(本来無料でできるはずのことに!)、体調も精神も安定しない、宙ぶらりんの自分に
自己肯定感は下がる一方だった。
しかもこの状況が、いつまで続くのか分からない。
人生の試練としか言いようがなかった。

あまり自分で色々考えると辛いので、
クリニックの治療方針に従って、淡々と進めることにした。
薬剤で排卵を抑制しながら、卵胞を育てる。
ほぼ連日通院し、「○日から○日までの間のどこかで採卵しましょう」と数日間を指定されたので、もう細かく調整できず、まとめて休みをもらった。

採卵は、処置というよりも、ちょっとした手術という雰囲気だった。
何度も名前を確認され、麻酔薬でうとうと眠っている間に終わった。

その数日後、
「私たちの赤ちゃん」…になるべきはずの、受精卵がクリニックで発生し、
培養士さんによって培養されています、という電話をうけた。
6個の胚を凍結保存できたとのこと。
冷凍庫で眠っている我が子を想像する(妄想)。早く迎えに行ってやりたい。

そして、とうとう迎えた胚移植の日。
胚の1つを解凍して、殻を割り、子宮内に「移植」してもらった。

人事を尽くして天命を待つ、と言うけれど
現代の人間にできることは全てやり尽くしたので
文字通り、人事は尽くしたことになる。
あとは天命を待つのみだ。

結果、最初の胚移植で着床し、妊娠することができた。30歳。
クリニックの受付で、「おめでとうございます」と書かれたプリントを、信じられない思いで受け取った。

その後、順調に妊娠期間を過ごし、
早産ながら、無事出産することができた。
すべて医療のおかげである。

4妊活・エピソード2

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出産から7ヶ月、 子供の保育園が確保でき、予定通り復職した。

それから2年経って、専門医を取得。
第2子を考えるところとなった。このとき33歳。

またタイミングを取り始めたが、授かる気配がない。
再び、期待と失望の無限ループに入っていく。
さらに今度は幼児が存在するため、
日々、育児と仕事で疲れ切りイライラ、夫婦仲は険悪に…。
毎晩寝かしつけで即寝するくせに、「タイミング」の時だけすり寄ってくる妻に、
夫は「自分は妻にとって、一体何なんだろう、自己実現のための単なる道具なのか?」とモヤモヤしていたらしい。
ごめん、夫(2回目)。

数ヶ月後、やはり医療に頼ることとし、再度クリニックの門をくぐった。
今度は、体外受精にあたって、
前回(3年前)に凍結保存した胚が残っているので、採卵をとばして、胚移植からスタートすることができる。

クリニックの先生は私のカルテを見て、
「あぁ、いい卵がたくさん残ってますね!さっそく始めましょう!」 と
相変わらず有無を言わせない勢い。「はい35000円です」「今日は50000円になります」
自費診療の負担感も、相変わらずだ。

採卵と比較すると、胚移植はそこまで時間の制約が厳しくなかった。
それに、育児のため元々早めに仕事を上がらせてもらっていたため、
職場に妊活のことは伝えずに、
「子供のお迎えのため失礼します」と素早く退勤し、その足で受診をしていた。

通っていた不妊治療クリニックは、他の患者の心情に配慮して、子供連れでの受診はNG。
なので、子供は保育園に預けたまま受診しなければならない。
時間に間に合わず、夫や実母にお迎えを頼んだこともある。

1回目の胚移植の日は、すこしウキウキして迎えた。
1週間後、血液検査で妊娠判定。
すると、陽性!!
4年越しで「おめでとうございます」の紙をもらう。嬉しい!

ところが、妊娠8週、心拍を確認して、
母子手帳をもらいに行こうかという矢先の、ある日。
こういう日のことは、鮮明に記憶に残ってしまう。
土曜日だった。曇りの日で、桜が咲いていた。

夫は通常勤務。私は勉強会に出席のため、土曜保育を予約していた。
朝から通常と違う腹痛があり、勉強会を欠席して、予定外でクリニックに駆け込んだ。
エコーで見たら、胎嚢はちゃんとあって、心拍も見えた。
ほっとしたのもつかの間、午後になって、さらに激しい腹痛と出血に見舞われ、
出血というか「ああ、これはさっきエコーに写っていたものだろうな」という、
心の中では「私の子」と呼びたいような、でも医師としての目では「組織片」としか呼びようのない、塊が排出されてしまった。
痛みと精神的なショックで、しばらく動けず、家で呆然としていた。
母に電話をして、保育園のお迎えをお願いした。
クリニックが午前中で終わってしまったので、近隣の産婦人科を探して、初診で受診して、
エコーで診てもらうと、もう、子宮の中は空っぽだった。

しばらくの間、どんよりと落ち込んだが、先に進むしかない。
気を取り直して、3ヶ月後、2回目の胚移植をした。
妊娠判定。陽性。
「おめでとうございます」をもらっても、手放しには喜べない。

おそるおそるフォローに通う。
「胚がすこし小さいですね…もう少し様子を見ましょう」
そのまま結局胎嚢は大きくならず、心拍も見えず、稽留流産が確定。
またか。

この頃、精神的に弱っていて、周囲の人々の何気ない言葉に傷ついてしまうことがあった。
「2人目はまだ?」「兄弟がいないと」というような直接的なものだけでなく、
透視を使っている手術室に「入れるか?」と聞かれて、「はい!」と答えながら、勝手に涙が出てきてしまったことや、
医局長に「(妊娠していないなら)外勤先を調整する必要がなくなって、良かった」と言われて複雑な思いをしたことを、忘れられない。
何の関係もないはずなのに、帝王切開の麻酔を担当するのが辛かったりもした。

またその反対に、優しい言葉をかけてくれた上司もいた。
「そういうことがあると、次に生まれてくる子が2倍3倍生きてほしいって思ったり、
今いる子が、2倍3倍かわいく思えたりするものだよな。
今回のことも、お前が悪いわけじゃないから、よく休んで。」
私も将来、こういう声かけができる人間になろう、と思った。

そのように私が精神不安定となって、一番迷惑を被るのは、いつもの通り、夫である。
「赤ちゃんじゃなくて、私の寿命が縮まったら良かったのに」と嘆いて、ひどく怒られた。

「流産の痛みは、経験した人にしかわからないし、俺はそれに関して適当な励ましはできない。次はできるよ、とか、がんばれ、とか。早く元気になって欲しいなという思いだけで正直、手が出ません。
だけど、こういうリスクも分かった上で、自分で選んだ選択肢だよね。
子供がもう一人いたら楽しいだろうな、と思うけど、誰も強制してないです。あなた自身のことを誰かが解決してくれることなんて無理だし、自分で解決すべきことだよね。自分自身のことを良く考えて、自分で収拾つけられると約束してくれない限り、次は絶対に移植の同意書にサインしません。
新しい家族が増えることはうれしいけども、何より妻の心身が健康であること、子供が幸せであること、これが何より一番の望みですので。
もちろん、よくよく考えた上でのトライであれば、喜んで同意します。」

正論だ。
あまりにも正論すぎて反論の余地はないが、孤独感はいっそう深まった。

ところで、第1子は早産、低体重出生であり、
胎盤の病理検査で「血栓が認められる」とあった。
加えて、複数回の流産、となると、
不育症の可能性もあるのでは…?と、検査に行くことにした。
勤務先の大学病院で血液検査を受けた結果、
抗リン脂質抗体症候群が判明。
通常の不妊治療に加えて、アスピリン内服、ヘパリン皮下注射で挑むことになった。

アスピリンを飲みながら迎えた3度目の胚移植
妊娠判定の日、診察室で、HCG陰性(着床していない)を告げられ
初めてクリニックで泣いた。
(先生やスタッフさんは慣れたもので「はいはい」って感じだった)

クリニックの成績では、私の年齢なら、凍結胚を移植しての妊娠率は約50%とされていた。
1回の胚移植には3-4か月、そして50万円ずつかかる。3回連続で失敗するとは、想定していなかった。情けなさ、悔しさ、劣等感に打ちのめされた。
凍結胚は残り2個。使い切ってしまう可能性も見えてきた。
その場合、今ある胚を残しておいて、少しでも若いうちに再度採卵をするか?という選択肢も提示された。

2度目の妊活を始めた段階では、採卵は負担が大きすぎるから、もうそこまではしなくていい、5回の体外受精でダメだったら、一人っ子として大切に育てよう、と思っていた。
だが、この時には、再度の採卵も辞さない気持ちになっていた。
つぎ込んだ時間と労力と金額が大きすぎて、諦めがつかない。
ここまでやって、手ぶらで帰れるか、という思い。
私はまだ、年齢制限にかかるほどではなかったため、よけいにそう思った。
引き際は本当に難しい。

4度目の胚移植
今度は妊娠判定、陽性となった。
有難い。
毎朝毎晩、祈る思いで、ヘパリンを皮下に打ち続けた。
腹部の皮膚は内出血して、見るも無残な姿になったが、
その甲斐あって、今度は無事に出産まで持ち込むことができた。

長かった。私は35歳になっていた。
これをもって、妊活を終了した。

5「妊活」について思うこと

なぜそこまでして子供がほしいのか、と聞かれても、子供がほしいから、としか言いようがない。
生まれた以上、遺伝子をつなぎたいのは、本能というもの。人間だもの。
自然に授からないなら、妊活上等である。

ただやはり、妊活ということは、基本的にはプライベート中のプライベートであり、「秘めごと」の類であって、
なかなか人に話しにくい、聞きにくいことであると思う。
そのために、妊活をしている人の思いと、周囲の感覚に大きなギャップが生じ、
職場内での摩擦につながりやすいのも事実だと思う。

妊活界隈に「不妊様」「妊婦様」という用語がある。
(※不妊治療中/妊婦だからといって、権利ばかり主張したり、他人に必要以上に気を遣わせてしまう人のこと)
自分が「不妊様」や「妊婦様」にならないように気をつけるのは当然として、
周囲が、妊娠を希望する同僚や部下のことを疎ましく思わずに済むように、
「妊活しやすい職場」は、どうか「その他の人にも働きやすい職場」であってほしいと思う。
医師の仕事は人類への貢献であるが、
子孫を残すことだって、突き詰めれば人類全体への貢献に違いないのだから、視野を広く持てば、目的は同じなのである(?)。

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一方、妊活当時の自分にメッセージを伝えられるなら、
辛いのは自分1人だと思い込まず、夫婦間でコミュニケーションを取ること、
そして毎日をできる限り楽しく、充実して過ごすこと、を伝えたい。
妊活中の時間だって、紛れもなく人生の一部なのだから。

最後に、
当時は妊活という経験に、何の意味があるのだろうと本当に悩んだけれど、
この文を読んで頂くことで、少しでもどなたかのお役に立つことがあるなら、
意味もあったことになるのかなと思う。
そうだとしたら、大変うれしい。

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