初期研修2年終了後、血液内科医師として後期研修を3年行い、その後6年間血液内科医師として大学病院や市中病院勤務。卒後11年と異例の遅さで大学院に入学し、基礎研究を4年半、多くの人に助けられ学位取得。海外留学を模索しながら再度大学や市中病院で勤務。卒後17年目、コロナ禍、ポスドクとして家族で渡米。
ちなみに卒後7年目で結婚、8年目に第一子(女児)、大学院在籍中に第二子(男児)を授かり、夫は循環器内科医。
記事作成日:2025年6月6日
※この体験談は、執筆者の先生ご自身の思いや感情を、できる限りそのまま表現いただき、私たちもそれを尊重いたしております。表現、用語などは誤解のないように配慮いただいておりますが、お気づきの点がありましたらご意見いただければ幸いです。
初期研修2年終了後、血液内科医師として後期研修を3年行い、その後6年間血液内科医師として大学病院や市中病院勤務。卒後11年と異例の遅さで大学院に入学し、基礎研究を4年半、多くの人に助けられ学位取得。海外留学を模索しながら再度大学や市中病院で勤務。卒後17年目、コロナ禍、ポスドクとして家族で渡米。
ちなみに卒後7年目で結婚、8年目に第一子(女児)、大学院在籍中に第二子(男児)を授かり、夫は循環器内科医。
医学部卒の海外研究留学は、30歳台前半ですることが多いですが、私の場合はすでに40歳をこえており、しかも二児をかかえての留学の実現はかなり難しいと感じていました。
日本では、留学のための奨学金応募条件は40歳以下であることが多く、40歳を超えた医学系研究者で奨学金を得ることは極めて困難です。当時3歳男児と8歳女児をかかえ、循環器内科医の夫と夫婦で米国研究留学の夢がかなったのはとても運がよかったと思っています。
何としてでも留学したい、という強い気持ちがあったこと、これまで日本からの留学生の多くがアメリカできちんと研究し業績をあげてきたという高評価がこの幸運を後押ししてくれたと思います。
自分の履歴書、推薦状2通を送り、TOEFLを受験し、半年くらいを経てついに、私は血液内科領域、夫は不整脈領域と研究分野は異なるものの、同じオハイオ州のクリーブランドクリニックに夫婦で雇用してもらっての研究留学が決まりました。クリーブランドクリニックで雇用してもらうためにはラボごとに決まったTOEFL基準点数をクリアしなくてはならず、昭和生まれの低いリスニングとスピーキング力しかない私には非常につらい試験でした。とにかくリーディングとライティングで点数かせぎをして試験を乗り切りました。
留学先が決まり、かつてクリーブランドクリニックに留学していた知人、現在クリーブランドに留学中の知人などから、家族で住むのに安全な地区、お薦めのアパートメント、娘が通学することになる現地小学校、息子の保育園などの情報を集めました。
娘は8歳であり、現地の公立小学校に通学可能でしたが、3歳になったばかりの息子の保育園探しに非常に苦労しました。夫婦で働くには平日安心して息子を預けられる保育園が必須ですが、当時、コロナ禍だったため、多くの保育園が閉園あるいは新規園児受け入れ中止していました。多方面から情報収集し、ようやく候補の保育園がひとつ見つかりました。オンラインで保育園の見学をし、クリーブランドに留学中の日本人にも保育園の状況を確認してもらい、安心して息子を預けられそうだと思い手続きを進めました。アパートメントもオンラインで契約を進めました。オンラインで見せてもらった部屋が実は異なる部屋だった、などマイナーなトラブルはよくありましたが、夫婦でクリーブランドクリニックに発行してもらったJ1ビザもあり住宅契約は比較的スムーズでした。
住む家も車もなく3歳児をつれて渡米し生活セットアップするのは大変だと思い、夫が1か月先にクリーブランド入りし、アパートメントの最終契約、車の契約、電気ガスや銀行などの手配を進め、生活の基盤ができたところで、私が子供たちを連れて渡米しました。
コロナ禍だったので、国際線はとても空いていました。18時頃に離陸した機内で夕食後、映画鑑賞し、子供たちは3人掛けで横になって寝られ、3歳男児がトラブルを起こすのではと心配していましたが、無事アメリカ入りできました。ダラス経由でクリーブランドに入り、現地の夜に到着しましたが、時差で私たちの身体の中は朝で、広いアパートメントの新居に子供たちと興奮したのを覚えています。アメリカでは子供が二人いれば2ベッドルームの部屋を借りなければならず、100m2をこえた新居、2バスルームで広々でした。
到着翌日、子供たちはクリーブランドクリニックの小児科を受診し、健康診断、追加予防接種をして通学、通園のための健康証明書を受け取りました。日本ですでに接種ずみのものは日本で英語の証明書を作成してもらい持参していました。私もクリーブランドクリニックの健診センターを受診し、就労前の健診をうけました。
渡米、翌々日くらいから息子は保育園へ、娘は小学校へ通学を始め、私は1週間くらいフリータイムで、さらに生活セットアップを進めました。車は2台目を購入しました。夫と私、同じクリーブランドクリニックに勤めるとはいえ、車が1台しかなければ、子供の送り迎え、買い物など常に行動をともにしなければならず、効率よい生活ができないと考えました。朝の送りは夫、帰りの迎えは私、夫の帰宅が早い日は迎えをまかせ、私は食料品の買い物をして帰宅、と分担できました。
いよいよCleveland Clinic Lerner Instituteでの研究生活初日を迎えました。4月下旬でしたが、なんと初日に雪がつもり車の上にも20cm程度・・・こんな深い雪の日に車の運転ができるはずもない・・・と出勤をあきらめていたら、研究室の上司からいつ来る?とメールがとんできて、何か生活に困っているなら助けるけど大丈夫?と。大雪で出勤するか迷っていると返事を送ると、これくらいの雪はクリーブランドでは普通だと出勤を促されました。幸い、CCに入っていたクリニックのマネージャーが明日からにしようとメールを流してくれて救われ、一日遅れで研究生活がスタートしました。
平日は毎朝、私は7時半頃に自宅を出て車で研究室に向かい8時頃に到着、子供たちの送りは夫の役割でした。娘のスクールバスが8時前にアパートメント前にやってくるのでそれを夫が見送り、息子を車で保育園につれていき、夫は9時前に出勤していました。ただ、スクールバスが不定期に20分、30分と遅延し、出勤をひかえヤキモキしました。コロナ禍の労働者不足が影響しているようでした。私は17時まで研究室で過ごし、娘と息子をピックアップして帰宅。渡米直後、想定外だったことは、コロナの影響で小学校のアフタースクールが閉鎖されていたことです。あわててプライベートの学童保育施設を探しました。
働き手不足のためか、アフタースクールの多くが閉鎖されており、娘が通ったところはクオリティがあまりよくない印象でしたが、娘は文句も言わずに通ってくれて、日本語を勉強している現地スタッフとお互い語学の勉強をしていたようでした。スクールバスで学校から学童保育をしてくれるkids care centerまでは送迎してくれ、娘も息子も18時までに迎えにいけばよいという状況でした。19時くらいまでには夫も帰宅し、みんなで夕食をとっていました。
私の研究室は多国籍でいろんな発音の英語が飛び交っていました。ボスはポーランド出身の男性、よく面倒をみてくれたNo. 2はイタリア出身の女性でしたが、私の日本英語も通じないことはしばしばで、はじめのころはとくに重要なことはe-mailや紙に書いて確認していました。ラボは資金潤沢な様子で、マウスを使う実験もパソコンで何匹のマウスを使用し、何日間薬物投与し、どのタイミングで採血するか、最終的にどの組織を摘出するか、など入力すればあとはマウス施設のスタッフがやってくれるので、アイデアさえあれば次々と効率よく研究できる環境でした。
4月に渡米し6月になりまもなく娘は夏休みに入り、サマーキャンプに毎日通いました。サマーキャンプの申し込みは半年前の1月下旬頃から始まっており、3月に渡米した夫が情報収集し、キャンプ申し込みを済ませてくれていました。毎週異なるサマーキャンプに通い、誰も助けてくれないなか、なんとか先生や友達の言っていることを理解しようと頑張ったようで、サマーキャンプの期間にぐっと英語のリスニングとスピーキング力があがりました。一方、息子はまだ3歳で英語もままならないので、そのまま同じ保育園に通園していました。
8月になり娘の公立小学校が再開し、学校のアフタースクールも始まりました。コミュニケーションも困難ではなくなっており、現地の友達もでき楽しそうに学校に通っていました。毎日昼休みにESL(English as a second language)の時間があり、英語の読み書きも教えてくれていたようです。家では国語力維持のため、朝日新聞の子供版、朝日小学生新聞をオンラインで購読し、天声こども語を毎日読むようにしていました。
夫も私も土日にラボにいくことはほぼなく、週末は家族ぐるみでバーベキューをしたり、プール、スケート、スキー、ファームめぐりをしたりと、様々なレクリエーションを楽しみました。コロナ禍で飛行機は利用しづらく、車で6時間、8時間かけてフィラデルフィア、ワシントンD.C.、シカゴなどにも出かけました。ワシントンでくら寿司、シカゴで日本食レストランに行き、少し日本とは異なる和食を楽しみ、でも少しほっとしたのを憶えています。
あっという間に時が過ぎ、家族の事情もあり私と子供たちは1年での帰国、夫は1年半での帰国になりました。帰国するころには大雪直後の通勤も日常となっていました。一度、交差点で雪にスタックしたときはあせりましたが、自分でタイヤ前の雪を除雪すれば無事、発進できました。
帰国してすでに3年のときが経ちました。だんだんと記憶が薄れる中、これを書きながら、クリーブランドで家族4人、とても素敵な時間を過ごせたなぁとつくづく実感します。単身留学ならもっと自由に時間が使えて、いろんなところに行けて、研究も思う存分できて・・・そんな空想もありますが、私より少し英語のスキルが上の夫のおかげで実現したこと、子供を通して体験できたこともたくさんあったと感じています。
日本で臨床医としての働いていると、仕事以外にも研究会、学会参加などさまざまな時間外業務、自己研鑽もあり、週末に子供と過ごす時間はかなり制約されます。また、子供がだんだんと成長するに従い、部活、塾など親と離れて過ごす時間も増えていきます。クリーブランドにいる1年間は研究のみだったので、時間外の仕事もなく研究室を離れれば携帯電話を気にする必要もなく、家族でめいっぱいアメリカ生活を楽しめたと感じます。
現地ではいろんな人に助けられましたが、研究においてはラボのNo. 2のイタリア人研究者、秋に東大から来た統計解析が得意な小児科医にはとても助けられました。帰国後、仕事をしながら夜中にラボミーティングに参加し、体力ぎりぎり・・・ということもありましたが、上記二人の大きなサポートのもと何とか留学中の仕事を論文に仕上げることができました。大きな仕事ではありませんが、自分のなかでまた一歩キャリアアップできた、と感じています。
私が2004年に医師になったころは、結婚し妊娠すれば、病院を退職するようなこともめずらしくなかった、と記憶しています。20年以上がたち、出産後も常勤医師として復帰する女性医師が増えています。現時点では夫婦で海外留学しているドクターカップルは非常にまれで、妻がキャリアを中断し、夫の留学をサポートする、という形が通常です。しかし、これからは子供がいても海外留学する女性医師は増えると思います。計画、準備、安全確保のための資金は必要と思いますが、子持ちでもUSへの研究留学は決して困難ではない、と伝えたいと思います。